2010年10月26日火曜日

「夜と霧」の感想

この本を読後、すぐに眠りについた。

そして、夢をみた。

その世界は戦争中だった。

私は戦火の中で彼女を探していた。しかし、発見した彼女は敵兵士に乱暴されている最中だった。

私は駆け出した。しかし、走っても走っても彼女には近づけない。なぜ距離が近づかないのかと私は焦った。

彼女と目が合った。その目はうつろで人形のようだった。私は叫び声をあげた。

そこで目が覚めた。時計を見るとまだ4:00前だった。隣には無造作に置かれた「夜と霧」の本があった。私の全身からは、冷や汗が出ていた。



若者の「希望は戦争」という記事を書いた赤木智弘さんの論文が一時期話題になったことがある。

若者といっても赤木氏は私より年上だ。彼より社会を長く生きていない私が彼に物を言うのには抵抗があるが、あえて言いたい。

「この本を読め」

と。

 私も氷河期世代の人間だから、色々と苦労はしてきた。定職に就いていない時期は「この先どうするの?死ぬの?」ようなことも普通に言われたりした。しかし、戦争を望んだことは一度も無い。私が楽天的な性格ということもあるだろうが、私と赤木氏の思考の違いの答えはこの本にあると思った。

 この本はアウシュヴィッツという悲劇の歴史を知るための本ではない。この本で知ることができるのは、人間の精神のあり方だ。

本の中に

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることが私達から何を期待しているかが問題なのだ

という言葉があった。

その通りだと強く思った。

 私には夢がある。多くの夢が。それを果たしたいと強く思っている。生きることが私に期待しているのはこれらの夢を成就することに違いないとこの言葉を咀嚼しながら考えた。我ながら単純な思考だとも思う。

未来を見据えている人の精神は強い。驚くほどに。この本はそれを教えてくれる。

「希望が戦争」などと言ってしまうのは、現在にも未来にも希望が見い出せないからだろう。この本に記述されている被収容者達と同じように。

今の日本の若者の胸に去来しているのは、アウシュヴィッツの非収容者達と同じ精神状態なのだろうか。

しかし、ただ時代の流れに沿って生きているだけで日本人だけが極上の生活を得られる時代はバブルの崩壊と共に終了したのだ。

未来は与えれられるものから、掴み取るものへと変わっている。

現在(2010/10)、日本は中国の尖閣問題で世論が揺れている。ネット上では中国に対する過激な意見が飛び交っている。

もし、戦争が始まり日本が勝利すれば、中国人に対しナチスのような行動に出るのではないかと危惧するほどにだ。それは、中国側にも同様なことが言えるだろう。

今の状態で、両国が友好を結ぶことはできない。また、必要もない。しばらく距離を置いて頭を冷やしたほうが両国のためになる。

大切なのは日本人や中国人といった人種ではない。

個人の精神だ。

中国人にも良い人間はたくさんいる。私は開発現場で多くの中国人に出会ったし、彼らはみな真面目でとても親切であった。ベトナムや台湾の人達も同様だ。

逆に、日本人でも性根の腐った人間はたくさんいた。

この本でも記述されているが、結局行動とは個人の精神の実体化した結果なのである。

国同士の仲が悪かろうと良かろうと、個人個人の人間性は別物だ。

著書のフランクルはこう述べている。

この世にはふたつの人間の種族がいる。まともな人間とまともでない人間と。

受難の民は攻撃的になる。とりかえしがつかなくなる前に、わたしたちも自分に問いかけなければならない。

自分はまともな人間なのか、と。

その時、この本は必ず大きな助けとなるだろう。

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